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騎手コラム

勝者に聞く勝ち方


  • [厩務員]平田修:1991年ダイユウサク

    今年もやってきたグランプリ・有馬記念。63回目を数える年の瀬の風物詩だが、例年のごとくドラマが生まれるレースとしても知られる。今回はその中でも、ファンの記憶にも残る名勝負をピックアップ。3名のレジェンドたちに栄光の舞台裏、勝利の要因を語っていただいた。まず、第1回は平田修調教師が登場。当時、担当していたダイユウサクとのエピソードを明かしてくれた。

    二四、千四、千六、千六…有馬記念!異例のローテでグランプリ制覇

    -:ダイユウサクについて、当時の担当者だった平田修調教師に伺います。思えば1991年の有馬記念は豪華メンバーでしたね。メジロマックイーン、ナイスネイチャ、プレクラスニー、オサイチジョージ、ツインターボもいました。

    平田修調教師:メンバーは厚かったですね。ツインターボがいたからレコードが出たのでしょうね。いわゆる“クセモノ”が多かったのかもしれません。今はゴールドシップ以降、そこまでクセのある馬はいないように思えますが、当時は多かったですからね。面白い馬が多かったですよね。ウチのも含めて(笑)。

    -:レースではツインターボが引っ張る速い展開の中団やや後方で、マックイーンとメジロライアンの後ろくらいを追走していました。その辺りで「もしや」と思いましたか?

    平:いや、思ってないです(苦笑)。もう直線を向いてから「良いところを通ったなあ」と見ていて。やっぱり有馬記念まで行って賞金なしで帰ってくるのも嫌だったから、4コーナー回った時点で「おっ、掲示板はあるな!」って思っていました。でも、まさか勝つとはね。あの時点では思っていませんでした。

    平田修調教師

    -:でも、そのさらに内からダイユウサクが伸びてきました。

    平:内に潜り込んでササーって伸びてきたからちょっとビックリしましたね。だから、後ろからマックイーンが来ていたことは知らなかったです。「マックイーンは何着だった?」って周りに聞きました(笑)。それくらい直線を向いてから周りは見えなかったです。

    -:内容的には圧勝でしたよね。1馬身1/4差と書いてあるけれど、見た目はもっと圧勝のような印象で。

    平:圧勝でしたね。ダイタクヘリオスの内から抜いたのかな。外に出してプレクラスニーを抜いて、マックイーンが来ていたけど、全く予想できなかった。

    「有馬記念は中1週で使いましたが、有馬記念の前走の阪神競馬場新装記念はもう一つ殻を破ればオープンを勝てるという段階で、そこを勝ってからの上昇度はハンパなかったです。馬はこんなに変わるものなのだなと思いました」


    -:平田先生がダイユウサクを担当されたのはいつからですか。

    平:タイムオーバーになった2戦が終わってからで、少し“まとも”になってからでした。当初は体質が弱くて調教も進められませんでしたからね。タイムオーバーになった時は熱発していたんです。後に有馬記念勝つ馬がタイムオーバーになるのだから、いかに酷い状態で走っていたのかが分かります。競走馬として生まれてきた以上、競馬を使わなければいけないし、大器晩成だったんでしょう。その能力を出すまでに時間が掛かりましたね。有馬記念は中1週で使いましたが、有馬記念の前走の阪神競馬場新装記念はもう一つ殻を破ればオープンを勝てるという段階で、そこを勝ってからの上昇度はハンパなかったです。馬はこんなに変わるものなのだなと思いました。

    -:この頃はスプリンターズSに使おうとも考えられていたとか。

    平:なにせデキが良かったんです。マイルで勝っていましたし、京都大賞典でメジロマックイーンを負かしにいく競馬をして完璧に負けたので、2000mを超えたらダメだなとクマ(熊沢重文騎手)も僕も思っていましたし、G1を勝つ力はある、スプリンターズSなら…と思っていて。ただ、先生が有馬記念へ行くと決められました。

    -:今と違ってスプリンターズSは12月でしたものね。今はスワンSに出て京都大賞典にも出るような馬はいませんよね。

    平:いないいない(笑)。当時もそういませんでしたよ。

    -:距離適性の幅広さも能力だったのでしょうか。

    平:本当に能力がある馬だったら1000万の1200mくらいなら勝つかもしれませんよね。1200mを使った後に2000mを使うと掛かる心配はありますが、ダイユウサクに関してはまったく心配なかったんです。操縦性は凄く良かった。クマの思い通りに乗れました。競走馬としてのセンスがあったんでしょう。

    -:7歳になってすぐの重賞(金杯)を勝って、その年の終わりに有馬記念を勝たれました。年の始めと終わりを勝ったことになりますね。金杯を初めて勝った時点ではどのくらいの感触がありましたか。

    平:そうそう。中間はスカスカでしたね(笑)。金杯勝った時は3連勝目でしたが、その前のトパーズS、飛鳥Sは圧勝だったんです。当時、田原成貴騎手が「この馬はオグリキャップや」と言ってくれていたみたいで。金杯の時、ダイユウサクは裂蹄していたんです。どうも歩様がおかしいなと。獣医に見せても分からなくて。いざ、競馬の時間が来て手入れを始めたら馬がシャキっとして、強い競馬をして勝ってくれました。その影響が残ったのか春は良くなくて。3連勝している時の状態のダイユウサクだったら勝っていたと思うのですが、大阪杯はホワイトストーンに子ども扱いされて負けてしまいましたね。

    -:その後、9月まで休養を挟みましたね。

    平:チャレンジCで復帰して、次の京都大賞典でメジロマックイーンに負けて、スワンS4着、マイルCS5着を挟んで、阪神競馬場新装記念を勝って有馬記念でしたね。秋はメジロマックイーンを負かすくらい期待していましたが、2400mでは敵わないなと。

    平:マイルCSの時点では有馬記念は目標になかったんだけど、次の阪神で勝ったから、内藤先生が「じゃあ有馬記念に行こう」って話になりました。

    -:当時はJRAの推薦馬というものがあったんですよね。その枠にダイユウサクが滑り込みで入りました。ファンは知らないけど、先生の中では絶好調になってきたダイユウサクを連れて中山に行ったと。

    平:そうは言ってもメジロマックイーンに敵うとはとても思っていなかったですけどね。当時はマイルから2000mくらいだったらマックイーン相手でもやれるかなぁと…。

    -:熊沢騎手も驚いていたんじゃないですか。

    平:いや、クマはゴール寸前にガッツポーズしていましたからね。あれは内藤先生(繁春調教師)に向けていたんじゃないですかね。クマも嬉しかったと思いますよ。他の騎手を乗せるって話もあったので。オレは知っていたけど、多分、クマは知らなかったと思います。他馬の回避でトップジョッキーも空いたんですよね。

    -:菊花賞を勝ったレオダーバンが回避していましたね。

    平:ああ、レオダーバンでしたっけ。けっこう裏で言ったんですよ。

    -:でも、結果的に熊沢さんで。

    平:良かったですね。

    平田修調教師

    ▲厩舎に飾ってあるダイユウサクの写真

    平:言い方は難しいけど、ある種、神がかったところもあったかもしれませんね。その時の追い切りも凄かったですからね。時計云々じゃなくて、クマはどう思っていたかは知らないですけど、言葉に言えないほどの凄い追い切りでした。

    -:どこのコースでの追い切りだったんですか。

    平:今で言うCWコース。当時はDWですかね。なにせ弱い馬だったから、ウッドコースでできたことが大きかったです。坂路には入れない主義でしたから。そこでデビューしてしばらくして追い切りができたので、それが大きかったんだと思います。脚元のこともありましたし。

    -:今でいったら3歳の10月くらいにデビューしている馬ですよね、2歳はデビューできず、それでタイムオーバー2発から始まって。

    平:しかも13秒差のありえないタイムオーバーです(笑)。

    -:その時も次もハナに行っているから、スピードはあったんですね。

    平:スピードがあったし、ゲートセンスは抜群でした。ただ前に行って粘るよりも、ちょっと控えての差し脚がすごかったですね。だから阪神の1200mの平場を勝った時、急に1200mだからついていけずに出遅れて最後にすごい脚を使ったから、それ以降はこの馬は末脚が素晴らしいということが分かってきたんです。

    -:1700mを使った後に1200mの芝というのは普通ならありえないけど、その良くなさそうなことが馬にとっては新たな一面を発見することにもつながっていることが面白いですね。

    平:馬にとって、そういうことをして悪影響が出る場合がけっこう多いなかで、あの馬に関しては良いほうに出ました。だからそういう意味では運はあったんでしょうね。

    -:カンフル剤のような。

    平:本当に有馬記念でもツインターボがガンガン行って、見ていてもう1200mみたいな気がしていたのを覚えています。あれが引っ張って、それにプレクラスニーとかダイタクヘリオスなどがついて行って。そのへんが散々引っ張ってくれたおかげで中団待機していた末脚が生きましたし。当時の日本レコードでしたからね。

    ダイユウサクのおかげで調教師になることを翻意

    -:馬としては、どんな性格だったのですか?

    平:いいヤツでした。やる時はやっていましたけどね。片方が白目だったし、かわいいという顔つきではなかったです。人になついたりする感じじゃなかったけど、何をしても怒らなかったですよ。首にぶら下がったりとかしましたけど…。そういう意味では、わりと素っ気ない馬でした。

    -:自分の世界をしっかりと持っている。

    平:そうですね、でも、だからと言って人間嫌いというわけではなかったですよ。

    -:なかなか6月の遅馬で体質も弱くて、それを我慢して育てようとしてくれた内藤先生の方針もハマったのですかね。

    平:そこは運とは言い難い部分はあるんですけど、結果的に有馬記念まで行きましたからね。今だったらプールがあり、坂路があり、ウッドコースと色々あるけれど、あの馬が走るということが分かっていればやりようはもっとあったのだろうな、もっともっと重賞を勝てて来たんだろうなという気はするけど、当時タイムオーバーを2回も食った馬を、辛抱してもう1回逃げさせてくれたのが内藤先生です。まだやりきっていないというのは、多分あったのでしょうけどね。

    「あの馬のことを語る時に忘れられないことは、そんなタイムオーバーを2回も食った馬だったから、自分のところへ来たけど、ひと月も付き合って乗っていたら、どう考えてもタイムオーバーを2回も食う馬じゃなかったんです」


    -:先生だったら、今現役の馬で3歳の10月まで待ってようやく使って、タイムオーバー2発でも、まだ我慢していただけると。

    平:していないでしょうね。今の体系ではもう無理ですから。地方に行って…。でもアイツなら地方でボンボンと勝って、それで帰ってきたんじゃないですか(笑)。何せ、本当に弱かったですから…。でも、あの馬のことを語る時に忘れられないことは、そんなタイムオーバーを2回も食った馬だったから、自分のところへ来たけど、ひと月も付き合って乗っていたら、どう考えてもタイムオーバーを2回も食う馬じゃなかったんです。「(走らないのは)何でかな、何でかな」と考えました。当時900万にピアドール、ラッキーヤマトという馬がいて、それが2勝している馬で、それらと3頭併せをすることになって、その2頭を子供扱いしたんですよ。それを見て、「この馬すごく走る!」と思ったのが、まずダイユウサクの力を認識した1回目です。ただ、その時はソエで、それを直せば大した馬だと思いました。

    -:だから中京ダートを使っていた。

    平:内藤先生も初めはダート馬だと思っていたので。

    -:そういう伝説の馬の側にいたということは、大きいですよね。

    平:大きいですよ。あいつがいなかったら、自分は厩務員をしていたんじゃないかな。今は違いますけど、血筋的にも調教師の息子でもなんでもないですし、騎手だったわけでもないですし、ましてや内藤厩舎の番頭であったわけでもなかったから、そういう人間が調教師試験を受けること自体があまりなかったんです。それを打ち破ったのが、森秀行調教師でした。その頃は臨場の調教師代行の試験も攻め専しか受けられなくて、ちょうどダイユウサクをやっていたあたりから持ち乗りも受けられるようになって、そういう風潮に乗ったというのはありますかね。

    -:時代と噛み合った。

    平:ダイユウサクで有馬記念を勝って、走っていたのは馬ですけど「俺がこれだけ頑張ったから」という気持ちというか、自分の中の達成感があって。みんなから「受けてこい」と言われたわけではないけど、荘さん(装蹄師の西内荘氏)に「試験を受けたら」と言われたのが大きかったかな。それでちょっとその気になったけど、いざ踏み切ろうと思うと、メチャクチャ勉強しないといけなかったですし、俺が受かる素地が全くないから、しんどいなという思いもありました。荘さんに言われてからも、なかなかすぐには動かなかったけどね。森さんのところへ移ってから本格的にやるようにはなりましたけど、まず、その気にさせてくれたのが荘さんですね。

    -:西内荘さんと出会ったのは森厩舎へ行ってからですか。

    平:いえ、内藤先生のところです。内藤厩舎は坂本さんという親方がいて、その弟子として荘さんがいました。歳も近かったし、荘さんがかわいがってくれて。ダイユウサクとはいろいろあったけど、荘さんがずっと(蹄鉄を)打ってくれたというのはありますね。当時はカリスマとか言われる前の話で、若手の中では抜けている存在で、かわいがってもらいました。今でも打ってもらっていますけどね。

    平田修調教師

    ▲平田師が保管している当時の新聞

    -:(ダイユウサクは)先生の人生を変えたのですね。

    平:もう死んでしまいましたけどね。ダイユウサクがいなかったら…。もっと気楽な人生だったかな(笑)。でも、あれだけ一生懸命やっていた時期、今が適当にやっているというわけではないですけど、寝る間も惜しんで…。弱い馬でケアが大変だったから、ちょっとやりだしたら、これもやろう、これもやろうとなるわけで。そこまで一生懸命やったのは、現実問題として賞金も稼いでくれたし、言ってみれば「俺の誇り」でしたからね。この馬をパンクさせるわけにはいかんというのがあって、必死でしたね。

    -:最高の相棒ですか。

    平:相棒といえばクマだったかもしれません。クマと一緒にユウサクを守ってきたところがありましたからね。俺が勝手なことをするから、内藤先生に「乗るな」と言われて、それでクマに乗ってもらって。クマとは本当に相棒でしたからね。だから有馬記念の時に乗り替わりは絶対に嫌だと。高校の時に部活もやってなくて、青春的なことはなかったけど、あの馬をやっていた何年か、物事に熱中して一生懸命やっていたことを青春というのであれば、あれが青春でしたね。彼女なんかいなかったから、当時は(笑)。

    -:それだけ没頭したわけですね。

    平:それで疲れたんですかね(笑)。それから何年か内藤先生のところにいましたけど、馬を担当するというのがしんどくなってきて…。森厩舎にいた時も1頭持ちはしていましたけど、やっぱり攻め専になって、調教師になりたいと思ったのは、その苦しさから逃れたいというのがあったかもしれません。自分の手が離れた時点でどうなるか分からないというのが多かったですから、それが辛かったです。

    -:ある種、完璧主義なのでしょうね、先生は。

    平:思い込みが強いんです。この馬がかわいいなと思ったらダメで…。2頭を必死で愛するよりは、分散した方が1頭1頭に対する愛情は…。

    -:あとは平田厩舎からダイユウサクみたいな馬を輩出したいですね。

    平:ハッハッハ。そうですね。(ゴールド)ドリームがどこまで行ってくれるか。

    -:ゴールドドリームはもっと優等生ですね。

    平:ドリームは乗っていても優等生で強いですから。

    -:もっと波瀾万丈な馬が良いですか。

    平:あれだけ波瀾万丈な馬って、そうそういないですからね。有馬記念の一発があったおかげで、のんびりしていましたからね。種馬生活も何年かしたけども、ほとんどの余生は浦河で過ごしたからね。

    -:ありがとうございました。

    有馬記念・勝者に聞く「勝ち方」
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