小久保智。昨年のJBCスプリントではV目前の2着となったサトノタイガーを、先日のフェブラリーSにも送り込み、その名を耳にする中央競馬ファンも増えてきたことだろう。2012年には、かの故・川島正行師の記録を塗り替え、南関東の調教師年間最多勝記録を更新。3年連続南関東リーディングと、その実績は疑いようのないところだ。今回は競馬ラボ初登場の師にロングインタビューを敢行。馬選び、厩舎運営の秘訣はもちろん、なぜ浦和競馬にいきついたのか。調教師としての生い立ちまで、余すことなく語ってもらった。

最強調教師が浦和で誕生するまで

-:それでは、初登場の小久保智調教師に伺います。よろしくお願い致します。今回は初のインタビューということで、プロフィールからお伺いしたいと思います。競馬界に入るきっかけから教えていただけますか?

小久保智調教師:ハイ、よろしくお願い致します。もともと家が貧乏で、奨学金で高校にも行ったほどだったのですが、お金を稼がないと返せないので、その時なりに悩んで、卒業したらすぐに働こうとなりました。もともとは親父が競馬ファンだったので、高校の卒業式の次の日に、競馬ブックに出ていた牧夫の募集に申し込んで、そのまま滋賀県の牧場に行きました。

-:大学への進学を諦めて、牧場で働いたのですね。それまで馬に触ったことはなかったのですか?

小:なかったです。まるっきりゼロからです。東京生まれのいわば都会っ子なので、厳しさで挫折しそうでした。4ヶ月くらいで辛く感じましたが、馬の世界は良いなと。もちろん東京に戻りたい思いもありましたが、馬しかないだろうなと思い、大井の赤間清松厩舎に厩務員で雇ってほしい、と電話したんです。「とりあえず会いに来い」となって、採ってくれたんです。

小久保智調教師

-:赤間先生とは面識はあったのですか?

小:なかったです。当時は、牧場に調教師の名簿が配られていたんです。それに番号が書いてあったので、電話しました。

-:電話してみるものですね(笑)。

小:そこで行ったら、赤間先生がうちは一杯だから、と大井の岡部盛雄先生を紹介して下さり、そこで働かせてもらえることになりました。それが18歳の時ですね。牧場で働いていたのはたった4ヶ月だけですが、働くことはこんなにも厳しいものかな、と思いしらされました。

-:厩務員生活は充実していましたか?

小:牧場には、それはそれは柄の悪い人もおりまして(苦笑)、馬にも触ったことないのに、「馬乗りを教えてやる」と言われて、丸い馬場で裸馬に乗せられて、何回も落とされながらグルグル回りました。「そうやったら馬に乗れるようになるから」と。

-:生活面だけでなく、人間関係的にもキツかったですか?

小:怒り方が関西弁ですよね。もともと東京出の坊ちゃまですから(笑)、それはそれは厳しかったです。


「浦和にきたのが20歳です。大井には2年いました。2年目の時に今の嫁さんと出会って、“結婚をするなら厩務員より上を目指そう”と思いました。でも、“大井でやっていくのは無理だな”と。調教にも乗せてもらえないんです。どうしたらいいか、と考えていたら、浦和なら調教に乗せてくれる、という話がありました」


-:そこを乗り越えて厩務員になって、この世界で身を固めようとなったのですね。

小:当時は朝も早いのですが、それは全然辛くなかったです。最初にやらせてもらったのが、当時でいうC3クラスの馬。それでも、“馬と一緒にレースに向かって行くことが、何でこんなに面白いのだろう”と感動の毎日でした。

-:調教師になろうという意識は当初からあったのですか?

小:高校の時には、騎手になりたかったですね。しかし、身長がデカかった(笑)。

-:ボクシングをやられていたんですよね。

小:ええ、体重も60キロはありましたから。しかし、助手や調教師というのは、頭の中にはありました。ただ、大井へ移って最初の1年間で色々なシステムを聞いたら、当時は厩務員から調教師になるのは無理なのだと思いましたね。というのも、何人かは助手上がりの人もいましたが、調教師になるのは調教師の息子さんや、ジョッキー上がりの方ばかりでした。厳しい環境は想像できました。

-:そうは思いながらも、しばらくは厩務員をなさっていたのですね。厩務員生活はどれくらいのキャリアになりましたか?

小:厩務員は18歳の時からですからね。大井には2年いて、浦和にきたのが20歳です。2年目の時に今の嫁さんと出会って、“結婚をするなら厩務員より上を目指そう”と思いました。この仕事も好きでしたからね。でも、“大井でやっていくのは無理だな”と。調教にも乗せてもらえないんです。どうしたらいいか、と考えていたら、浦和なら調教に乗せてくれる、という話がありました。もう一回、元にいた牧場に頼んで、「3ヶ月間みっちり馬に乗せてくれ」とお願いしました。そこで3ヶ月間牧場へ行って、浦和にきたんです。

小久保智調教師

転機となった3年目

-:浦和に来たのはそういう経緯だったんですね。

小:ええ、調教師になるため、上を目指すために浦和に来たのです。

-:そこまでで十数年ですよね。

小:最終的に村田(貴広)厩舎に転厩して、調教師を受けさせてもらうには、受からなければいけないということで、一発で受かりました。当時も苦しい生活で、嫁さんにも本当に申し訳ない中、「もうちょっとで(調教師に)なるから、頑張るから」と言いながらの10年でした。

-:そんな小久保先生を奥様も支えてきたのですね。それから晴れて助手になられたのですね。

小:試験を受けさせてくれる、という厩舎に移って、すぐに受けさせてくれました。

-:一発で受かって、いよいよ調教師に向けて、という日々の始まりですね。

小:助手になれさえすれば、(調教師に)なれるというのはありましたね。

-:2005年の開業ですが、浦和では一番若いくらいですよね。

小:あの時はそうですね。薮口(一麻調教師)ちゃんとは同級生ですが。


「(厩舎運営は) 自分だけが頑張ってもダメなんだな、とは痛感しましたね。“自分が今までこうやってきたんだ”という考えでは成り立っていかない、と1年目は思いました」


-:若い2人が開業したのですね。その2005年から10年目を迎えます。どんな10年目を迎えていますか?

小:あっという間ですね。月並みなコメントですみません、ハハハ(笑)。

-:開業一年目の2005年は年間2勝でのスタートですが、開業当時に苦労されたことはありましたか?

小:自分だけが頑張ってもダメなんだな、とは痛感しました。“自分が今までこうやってきたんだ”という考えでは成り立っていかない、と1年目は思いましたね。2年目も大して勝てていないのですが、その時も預かった馬の中には良い馬がいたんですよ。でも、結果が出せませんでした。“何かを変えなくてはいけない”と思い、それから色々なところを見に行きましたね。

-:競馬場や厩舎ですか?

小:名古屋や高知にコソコソ行っていました(笑)。許可をいただいて、名古屋の角田(輝也調教師)さん、高知の田中(守調教師)さんなどの厩舎を見学に行きましたが、当時の僕のこと覚えているかな(笑)?角田さんは今でも仲良くさせてもらっていますが、そうしてコソコソと行っていました。

-:色々と勉強したことが、結果に繋がってきたのはいつ頃ですか?

小:3年目の後半くらいから、いわゆる『厩務員目線』ではなくなってきましたね。オーナーと、厩務員さん、騎手さん、という役割を相対的に見られるようになってきました。そうは言っても、具体的に分かっていたかは今でも分かりません。


「各ポジションそれぞれの気持ちがあります。馬主さんは“この馬を勝たせたい”、厩務員さんは“自分で考えてこうやったら勝てるだろう”、ジョッキーは“この馬はこう乗れば”と。そういう考えを上手く絡めて、歯車を合わせないといけません」


-:そういう経験が上手く噛み合ってきたのですね。

小:各ポジションそれぞれの気持ちがあります。馬主さんは“この馬を勝たせたい”、厩務員さんは“自分で考えてこうやったら勝てるだろう”、ジョッキーは“この馬はこう乗れば”と。そういう考えを上手く絡めて、歯車を合わせないといけません。

-:技術者というよりも、経営者、社長でいないといけないのですね。

小:だからこんなに太っちゃったんですね。

-:ストレス太りですか(笑)?

小:色々な人の話を聞こうと思って、馬主さんが「晩飯を食おう」と言えば行って、色々な話を聞かせてもらって、「ちょっと海外でも見てくれば?」と誘われれば一緒に連れて行ってもらったりしました。本当に、皆さんのお陰でここまでにしてもらいました。

-:それとともに貫禄もついてきていいのではないですか?

小:いやいや、それはないですよ(笑)。

小久保智調教師インタビュー後半は3/8(日)に公開!
南関東4場でも最小規模の浦和競馬からトップを穫るためのノウハウ、小久保流の馬選び、壮大なプランが明らかとなる、必見の内容となっております。ご期待ください!


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