関係者の素顔に迫るインタビューを競馬ラボがオリジナルで独占掲載中!

池江泰郎調教師&池江敏行調教助手

池江泰郎調教師&池江敏行調教助手


■■■  ダービーへ向けて、トゥザグローリー ■■■


-:2戦2勝ときているトゥザグローリーが、青葉賞に出走します。

池:東京に使いに行くけれど、そこで(ダービーの)権利を獲れないとどうしようもないからね。そこでビシっと造って、権利が獲れるか?運命の別れ道やな。

-:先ほどのフォゲッタブル然り、この馬も成長はユッタリしていますね。

池:そうだね。これはどこも悪いところはないんだけれどね、フォゲッタブルはまだ力も筋肉もついてなかったからね。こっちはまだ無駄肉が一杯ついているからね。それをとって、乾燥させてやらないとアカン。急激には減らないから、520キロくらいになったらスッと動けるようになるんじゃないかな。やっぱり、食べさせて、調教をつけた上で、体を絞らないといけないからね。

-:新馬の時にみたらプヨプヨしていましたね。

池:まだ20キロくらい減らないとアカン。ダービーでも勝てる体と言ったら、520を切ってこないといけないだろうね。まだスラーっとしているだけだから、出るところは出て、減るところは減らないといけないからね。顔もまだむくんでいるし、少年の顔だからね。僕らも50何年やってるけれど、若かったら若い顔しているからね。青年の顔になってこないと。

-:顔でわかるものなのですね。

池:顔の相でわかる。半年・1年経って来ると顔も締まって来るし、目つきも変わってくる。人間と一緒ですよ。1年365日、馬と共におるんだもん。家族より、いる時間が長いもんな。家族なんて、帰ってきてご飯食べて寝るだけだから、ほとんどお馬さんと一緒の生活だよ。何でもないけれど、1日1日の積み重ねが実になってくるんだよね。いい状態で馬を送り出す事が、我々の使命だからな。

-:今回のフォゲッタブルで行ったら、パドックまで持っていく事で達成感が得られるわけですね。

池:満足の行く状態まで仕上げて、ターフに送り出すこと。それが務めだ。1日1日の努力があるから競馬ができるわけで、そこに空白があったら、その日(大舞台に立つ日)はないから。それを維持していくことだね。我々の仕事は時間が過ぎたら戻ってこないから。馬の脚元が悪くなったら、すぐに見つけないといけないしね。

-:凄く気を使う仕事ですよね。

池:どこへ行っても馬の事が頭から離れないからね。休みはないし、月曜日でも育成所とか牧場へ行ってる。それで帰ってきて「今日は良かったなぁ」って。でも、それが務めだと思っているから、苦にはならない。

-:じゃあ、馬が趣味のような?

池:そうそう。でも、自分もストレスを溜め過ぎないようにしないとアカン。馬の状態を確認すれば、ストレスはスーッと解けてゆくよ。電話で「あそこが悪い、ここが悪い」って聞くより、自分で確認してね。

-:お酒を飲んだり、他の事をしたり、というわけではなく。

池:そうだね。自分で納得すれば、ストレス発散と。

-:先生がジョッキーをやられてきた事は糧になっていますか?

池:そりゃぁもう。色んなものを吸収してきたからね。中学を卒業して、自分が16の時に何にも知らないところで宮崎から出てきて、真っ白の状態やな。

-:どうして出てきたんですか?

池:学校の先生が「お前は体が小さいし、運動神経良いし、騎手や」って、言ってね。その頃は何を言ってるかわからなかったんだけれど、学校の掲示板に騎手養成所のポスターが貼ってあって、「こうゆう仕事があるから、やってみるか?」って、聞かされてるうちに、先生が勧めたんだよね。親に言ったら「そんな危ない仕事はダメ」って言われたけれど、それはそれで受験したら受かったんだよ。それで、32時間汽車に乗って東京に来たんだよ。

馬事公苑の入学式が4月10日だったんだけれど、何もわからないんだ。でも教官が「俺の言う事さえちゃんと聞いてればいい」って、言ってね、それは真剣やわ。先生の言うことを教科書どおり聞いてね。そしたら、馬にも乗れるようになってね。それで昭和34年に相羽厩舎から騎手としてデビューしたんだよね。そこに4年くらいいたかな?それで、相羽先生が亡くなって、相羽厩舎の兄弟子の浅見国一が調教師になって、後を継いで、そこの専属になったんだよね。そこで30の時くらいかな?大腿骨を骨折して、1年くらい休んで、そこから何年かやって100勝くらいしたかな?36歳の時に調教師試験受かって、38歳で開業して、今に来ているわけだよ。だから、自分がやってきた事、もういっぺんやってみろと言われたらできないな。


-:それは苦しいからですか?

池:苦しいし、相当苦労してきたからね。

-:中学校の先生に出会わなかったら、ディープも産まれなかったですね。

池:そうそう、色々な人の縁がこうして繋がってきているわけだな。人に助けられたりして。兄貴もオグリキャップを担当して、いい思いをしたんじゃないかと思うけど。反対した親もこっちに出てきて、すっかり競馬にドップリだったからなぁ(笑)。朝からグリーンチャンネルみて、新聞記者より詳しかったよ(笑)。「あの乗り方は良くなかったね」とか。

-:馬が走ることがひとつの親孝行だったと。

池:馬が人気して負けると機嫌悪かったらしいよ(笑)。そうこうしてあと1年になるな。俺が一番若いんだ。3月1日生まれは繰り上がってな。2日だったら遅いんだけれど、そうゆう決まりだから。

-:宮崎から出てきて、55年ですね。

池:楽しいというよりも、苦労の連続だったね。昔は人間の愛情があった時代だったけれどね。ただ、幸せなことばかりじゃいけないし、苦労があるから得られる幸せもあるからね。

-:まだ引退までお時間はありますので、またお話を聞かせてください。

池:引退って、来るんだよなぁ。毎日「~をやらなあかん」とやっていくうちに一日一日が過ぎてゆくわけだからね。だから、引退という感覚はないし、まだまだやらないといけない事は一杯あるからね。

■■■ 1週前追い切り後、池江敏行助手に聞く ■■■


-:(21日の)フォゲッタブルの追い切りを終えたばかりの池江敏行調教助手にうかがいます。前走のダイヤモンドSから3ヶ月空いた事を不安材料と受け止めるファンもいるかと思います。

池:何かあったら、やれへんからねぁ。ここ3~4週間も。2月14日に競馬を使ったあとに、ほぼ2ヶ月。それで1カ月前から時計を出始めているからね。こちらからしたら「何があるんでしょうか?」という、感じだけれど。

-:ダイヤモンドSで賞金を加算できたからこそのローテーションですか?

池:昨年から長いところばかり使ってきたし、「全く何もなかった」とはいわないけれど、多少なりとも馬体は減っていたからね。本番は阪神大賞典ではなくて、天皇賞だから。増えなくい状態で大賞典を使ったら、競馬ファンが考えても「それはちょっと」って、思うだろうし。

-:プール調教などされていた点を疑問に思う方もいます。

池:プールは筋肉を緩めさせないための軽い運動だから。追い切りが終わったあとのプールは馬にとって凄くリラックスできる場所らしいね。館長が言うには、運動だけで30分~1時間やるよりも、プールだと精神的にも肉体的にもリラックスができるらしいね。

-:館長さんも、プールの動きはディープとか走る馬の大きな動きをしているとおっしゃっていました。1週前の追い切りはいかがでしたか?

池:あの馬の性格から、ビッシリやった後は確実にテンションが上がってくるし、気持ちも高ぶってくるんだよね。当週に(ビッシリ)やってしまうと気持ちが入りすぎるけれど、ウチの先生は長距離馬を造るノウハウがあるからね。そこは心配ご無用ですよ。



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【池江 泰郎】 Ikee Yasuo

1941年宮崎県出身。
1978年に調教師免許を取得。
1979年に厩舎開業。
JRA通算成績は811勝(10/4/25現在)
初出走:
1994年11月26日1回京都7日目1Rヤマトタイトル(3着)
初勝利:
1994年12月25日7回阪神8日目2Rヤマトタイトル


■最近の主な重賞勝利
・10年ダイヤモンドS (フォゲッタブル号)
・10年京都牝馬S (ヒカルアマランサス号)


これまでにメジロマックイーン、トゥザヴィクトリー、ステイゴールド、ゴールドアリュールなどの名馬を手掛けてきたが、05年にはディープインパクトで3冠を達成。また、6度の優秀調教師賞を受賞するなど、輝かしい実績を残してきた。 来年で定年を迎えるため、現3歳世代が最後の管理馬となる。兄は中央在籍時代のオグリキャップを担当した池江敏郎元厩務員。池江泰寿調教師は子。甥の池江敏行調教助手はディープインパクトなどを担当。



【池江 敏行 調教助手】 Ikee Toshiyuki

1962年大分県出身
1979年に池江泰郎厩舎の開業に併せて調教助手になる。
これまでにディープインパクト、メジロマックイーン、ステイゴールドなどを担当。