関係者の素顔に迫るインタビューを競馬ラボがオリジナルで独占掲載中!

蛯名正義騎手



プロフィール
【蛯名正義】
1969年北海道生まれ。
1987年に美浦・矢野進厩舎からデビュー。
JRA通算成績は1569勝(10/25現在)
初騎乗:1987年3月 1日 2回 中山2日 5R アイガーターフ(14着/15頭)
初勝利:1987年4月12日 3回 中山6日 4R ダイナパッション
■主な重賞勝利
・06年朝日杯フューチュリティS(ドリームジャーニー号)
・02年マイルチャンピオンS(トウカイポイント号)
・02年天皇賞・春(マンハッタンカフェ号)

毎年関東リーディングの上位を賑わすトップジョッキー。エルコンドルパサーの凱旋門賞2着が記憶に新しい。中団からの差し・捲りには定評があり、G1でも慌てず直線一気でゴールを沸かす。




記者‐それではまず、蛯名さんがジョッキーになろうとしたキッカケを教えて下さい。

蛯名-「グリーングラスの菊花賞をテレビで見て・・・それが一番最初のキッカケかな。オヤジが馬券買ってたこともあってたまたま競馬中継を見て、ああ、こんな仕事もあるんだというのが分かって。やってみたいな、とそこで漠然と思ったんですよ」



記者‐競馬学校の同期は武豊騎手がいらっしゃいますね。学校は大変でしたか?

蛯名-「その時は大変でしたけど。その時期はまわりの同級生はみんな高校生で楽しく遊んでるじゃないですか。友達に電話するとそんな話をしてたりするんで、何で俺らこんな牢獄みたいなところにいるんだろって思いました。女の子はいないしね(笑)。まあ、今になってみれば笑い話というか、いい思い出というか(笑)」

記者‐卒業後は矢野進厩舎からデビュー。30勝をあげて、関東の新人騎手賞を受賞されました。

蛯名-「そうですね、その年がうちのテキがリーディングを取った次の年あたりだったんですよ。ホントにいい馬がいっぱいいて、テキもオーナーも協力してくれて、つかまっていれば勝てそうな馬にもいっぱい乗せてもらったんで。最初のうちはまあボツボツだったんですけど、秋の福島で結果を出せましたね。昔、秋の福島は2ヵ月あって、その間で15勝くらいは勝ったんですよ。それで一気に行けたんですけどね。他にもいろんな厩舎の馬に乗せてもらえるようになってきて。厩舎に所属してましたけど他に良い馬がいればそっちに乗せてもらえたし、僕の良いように先生が協力してくれたんですよ。ホントにウチのテキがいたから今の自分があるんです。ウチのテキがいて、吉田善哉さんがいて、とかいろいろつながりが出来てここまで来てるしね」

記者‐そんな矢野先生も来年には定年をお迎えになります。先生の馬(エフティマイア号)で新潟2歳Sを勝った時はどうでした?

蛯名-「そうですね、先生も来年の2月いっぱいですから、最後に活躍する馬が出たらいいな、って思ってるところにたまたま2歳で元気がいいのが出てきてくれて。やっぱりすごく嬉しいし、先生にいい思いをしてもらいたいな、って思っていたんで」

記者‐そうですか、あらためておめでとうございます。その後デビューから5年目で重賞初勝利ですね。

蛯名-「フェブラリーハンデでしたね。フェブラリーステークスがG1になる前のG3の時ですね」

記者‐5年目で重賞勝利ってなかなか早いですよね?

蛯名-「まあ、今はデビューしたその日に重賞勝っちゃったりするヤツもいるからね(笑)」

記者‐1995年にはフジヤマケンザンで香港国際カップ(現・香港カップ)を勝ちました。海外重賞制覇です。

蛯名-「1回目は全然競馬をさせてもらえないで、全然ダメだったんですよね。追えずに包まれて・・・。2回目に春先のクイーンエリザベスに行った時は包まれて出られずで、2回失敗してるんですよね。で、3回目にもう一度チャンスをもらって、暮れの香港カップで今度は勝てたんです。そんな感じで、本当に何回もチャンスをもらってね。まあ、何度か行けば、どこに何があって、っていうのが自分で分かってくるし。慣れというか、そこにいる人たち、例えばバレットひとつとってもそうだし、『あっ、アイツまた来たよ』みたいな感じでできるようになって。最初の頃は見る物全部初めてだし、場所も人も全部環境が違うから、ドキドキしながらやってたけど、トイレがどこにあって、ジョッキールームがどこにあって、とかそういうことが全部分かって行くと違うな、っていうのはありますよね」

記者‐レース以外で気を使うことが減ってくる、と。

蛯名-「そうですね。全部が普通になるっていうことが、やっぱり大事だっていうことなんですよ。サラッと行ってくるんだよ、ってくらいの感覚じゃないと、人間も緊張したり、馬もそういう風になったり、どういう風にしていいのか分からないようじゃ、世界の舞台じゃ勝てないだろうし。経験は必要なんだな、と感じましたね」

記者‐優勝するまで3回チャレンジされて。

蛯名-「そこまでオーナーにも調教師にも、『もう1回、もう1回』ってチャンスもらったんで、最後は何とかしたいっていう気持ちで。『これが最後だろうな、これで失敗すれば間違いなくもうチャンスは無いな』って思ってたんでね。まあ、結果を出せて良かったですけれど」

記者‐勝った時は?

蛯名-「嬉しかったですね。嬉しいしホッとしますね」



記者‐蛯名さんの海外遠征といえば、エルコンドルパサーのお話も是非お聞きしたいのですが。

蛯名-「これも大きいよね。またステップを上げた挑戦なんでね。そういう馬に乗せてもらえて、オーナーにも感謝してるし、ホントになんていうのか、お金を度外視した挑戦だったんで、そういうのを捨ててもそこに行くっていうのがオーナーの夢で。その挑戦の中に自分が混ざれたっていうね、ああいう大きな舞台に行かせてもらえたっていうのは自分にとってものすごく大きな財産、素晴らしい財産ですよね。あんな馬は、もう自分が二度と乗ることがあるかどうか、っていうくらいのレベルの馬だったと思いますよ」

記者‐毎日王冠から、的場さんから蛯名さんに替わりましたね。依頼を受けたときはどう思いましたか?

蛯名-「それはもう、良い馬が回ってきたな、と思いましたよ。毎日王冠でグラスワンダーとぶつかって、主戦の的場さんがグラスを選んだんでエルコンドルパサーが自分のところに回ってきて。初めて追い切りに乗った時、ああ、やっぱり走りそうだな、と思いました」

記者‐その毎日王冠はサイレンススズカとグラスワンダーとエルコンドルパサーが揃ったレースでしたね。

蛯名-「盛り上がりましたね。素晴らしい競馬だったと思いますよ。自分の馬もバテてるんじゃなくて、ずっと伸び続けていたしね。あの馬(サイレンススズカ)を追っかけていなかったっていうのもあるけど、揉まれる競馬をしたかったんですよ。これから先の事を考えると、そういう競馬をしたかったんで。初めて真ん中に入って行って、気にしながら走っていましたけど。それが次のジャパンカップに繋がりましたね」

記者‐3歳馬でジャパンカップを勝ったのはエルコンドルパサーが初めてでしたよね。すごく強い勝ち方でした。抜け出した後は何の不安もなかったんですか?

蛯名-「全然。追いつかれる感じはなかった。直線、あと300mくらいから少し追い出すとグングン行ったから、ああ、これはもう負けないな、と。これならもう追いついて来れないな、と。どこまで行っても持ったまんまで、他が止まっちゃうと思いました。そういうレベルの馬だったんですよ、ホントに。だからこそあそこまで速かった」

記者‐海外でも図抜けた成績を残しましたね。

蛯名-「4戦2勝2着2回ですね」

記者‐凱旋門賞はわりと前の方でレースをしたんですよね。

蛯名-「はい。ハナに行きました。周りがみんな遅くてどうにもならなくて。ペースメーカーのラビットが出てたけど、そのラビットより速いんだから(笑)。まあ、内側の枠を引いてたから余計にね、ガチャガチャになって包まれて悔いが残るような競馬はしたくないなと思っていたし。そういうスタートだったんで、気持ちよく行こう、と。馬の力を信じてね」

記者‐日本と馬場が違うってよく聞きますが。

蛯名-「またあの年は半端じゃなく雨が降ったんですよ。凱旋門賞史上、一番悪いっていうくらい雨が降ったから、その中であれだけ踏ん張っているから、普通の馬はこなせないと思う。相当、ドブドブだったからね。あの馬も日本でそういう経験がなかったから、最初に行った時はズルズルにノメッて走れなかったらしい。向こうに行って走っているうちに巧くなったんじゃないですかね。ずっと半年間の遠征をしてそういう馬場を走るのに順応して。あとはトレーニングの賜物じゃないですかね」

記者‐それだけ馬場の違いってあるものですか?

蛯名-「雨が降ると全然違う。降っていなければそう大きな差はないかな、多少芝が長いくらいで。降るともう全然違う」

記者‐そうですか。エルコンドルパサーと出会った後、自分の競馬観が変わったというようなことはありますか?

蛯名-「こういう馬じゃないと、凱旋門賞では通用しないだろうな、って思いましたね。自分がこれからジョッキーをやっている間、エルコンドルを基準にしながら、この馬には何が足りないっていうのはある程度分かっていくだろうし、世界の最高峰で競馬をした馬と、これが違うあれが違う、これはもっとこうなったらいい、とか。そういうのが大きいですよね。その感覚というのがね」



記者‐多くの名馬に跨ってそのような感覚を身に付けられていくんですね。

蛯名-「マンハッタンカフェだって、無事ならもうちょっとやれたんだろうけど。あの馬、春先はなかなか体質が弱くて、それが思うようにできなかったんです。最初から走る馬だったんですけど、使うと体が減ったり。もの凄くドッシリしてるようでナイーブな馬だったんで、春先は食べたものが身にならないっていう状態で。使い減りしちゃって、キリンみたいにヒョロッとしちゃうんで。輸送でも、すごく神経を使ってました。秋はそういうのが少なくなって、菊花賞の時には早めに栗東に入厩させたり色んな事をして、できるだけ輸送の時間を短くしたり工夫をして、やっと力を出せるようになったんですよ。元々力を持ってたんだけど、春先は半分も出せなかったんです。菊花賞ではジャングルポケットを寄せ付けなかったし、有馬ではテイエムもメイショウドトウも負かしたしね。いい馬でしたよ。脚元が丈夫じゃなかったんで、最後はケガしちゃいましたけど」

記者‐マンハッタンカフェはデビュー前から跨ってたんですよね。この馬、こうなってくれば絶対走ってくるな、って思っていた馬が実際そういう風に成長してくるのはジョッキーとしてすごく嬉しいんじゃないですか?

蛯名-「嬉しいし、実際結果が出ると、やってる事が間違ってなかったんだな、とか確認出来ますよね。まあ、単純に嬉しいですし。ずっと我慢して春先悔しい思いしながらも、走るんだけどなぁ、でも今は我慢しなきゃ、っていう思いがね。本当はいつも活躍していたいけれど、そうは言っても馬にも時期っていうものがあるからね。その時までオーナーなり関係者なりがみんな我慢して待ってくれて、芽を摘まなかったのが、あの馬が大きく伸びた要因だと思うしね」

記者‐オーナーや調教師や厩舎スタッフ、マンハッタンカフェに関わった方たちの我慢やチームワークで大成できたわけですね。ところで、蛯名さんは関係者の方々と仕事を進めるにあたり気をつけている点はありますか?

蛯名-「自分が思うことは、できるだけ率直に正直なことを言おうと思ってる。それが馬のためになると思うし、ゆくゆくは当然自分の収入にも関わってくるわけだから。自分が分かる範囲の中で出来る限りアドバイスはするし、意見も言うし、良かれと思うことはちゃんと話をするから。あとは、馬主さんなり調教師さんなりが最終的に判断をして、どうしていくかは決めるだろうし、一応自分が思うことは、ちゃんと話はするようにしています。まあ、そうやって俺らの世代は上の人から教えてもらったんでしょう。馬はそうやって作るもんだ、と」

記者‐先輩に鍛えられたんですね。

蛯名-「鍛える、というか普通だと思うよ。俺の頃は新馬戦も乗せてもらえないような時代で。極端な話、『若いヤツは新馬に乗るな』って時代だったんでね。今でこそ平気で若いのが乗ってるけど、そのぐらいモノに対して順列があってね。だから、我慢してた分、学べた事もあるし、頑張ろうっていう気持ちもあるよね。まあ、今の若い子たちも大変なことがあるだろうとは思うけどね。今は一極集中になってきて、調教師さんも若いのを乗せなくなってきているし、オーナーも厳しくなってきている。俺らの時は、乗り鞍はないけれど所属の調教師さんがちゃんと育ててくれて、厳しかったけれど、ちゃんと乗せてくれるというのがありましたね。ジョッキーってやっぱり人間だから。馬がいて、オーナーがいて、調教師さんがいて、色んな人がいて、俺らも伸びてきたし、今トップになってるヤツらも全部そう。一人で上がってきてるんじゃないしね。ユタカ(武豊騎手)にしたってそうだよね。武田作十郎先生がいて、河内さんがいて、色んな人がいて、と。やっぱりみんなそういう風にして上がってくる背景があるから」

記者‐なるほど。

蛯名-「今は上がろうと思ってもなかなか難しい。俺らは、先輩ジョッキーに教えてもらうっていう時代を生きてきて、色んな部分で教えてもらいながら、積み重ねて来ているっていうか・・・そういう意味では自分は良い時代にジョッキーになったかな。それこそ俺らがデビューした頃って、周りで活躍してたのが、加賀武見さん、郷原洋行さん、岡部幸雄さんだ柴田政人さんだ、田村正光さん、蛯沢誠治さん、菅原泰夫さん、小島太さんでしょ」

記者‐そうそうたるメンバーですね。

蛯名-「そう。これはリーディング15位までには入れないな、っていう位のメンバーだったんだよね。その中で本当に揉まれて、それでもどうにかして上がろう、どうにかしてそういう人たちから話を聞こう、っていうんで、後ろくっついて歩いていろんな話を聞いて勉強させてもらってきた。今でも、あの馬どうなんですか?とか、自分はこう思うんですけど、っていうのをぶつけて教えてもらったりして。今はそういうのがほとんど無くなっているんで・・・。縦のつながりが無くなって横のつながりしかないっていうかね、すごい薄いよね」

記者‐若手が蛯名さんに声をかけてくる、ということは?

蛯名-「あまり来ないよね。乗ってた馬の話は来るにしても、もっとプライベートもそうだけど、例えば酔っ払った時にそういう話が出たりね。基本的には本当の事なんか誰も教えてくれないから。かわいがってもらわなけりゃね。技術っていうのはそういうもんだし、いつか自分の敵になってくる人間だから。かわいいと思わないヤツに誰も教えないと思うしね。俺らも、どうにかして酔っ払わしてでも聞いてやろうと思って、先輩に上手くお酒をすすめてみたり(笑)。今はそういう風なものがなく、横の友達だけでつながっている。楽しいかもしれないけど、薄いかなって感じがするよね。技術に厚みを持たせるというか磨くためには、本当はもっと縦で繋がらないと、って思うけどね」

記者‐トレセンのジョッキールームって明るい感じがして、話を聞きやすい環境なんじゃないかなと思いますが。

蛯名-「聞きに来るヤツも中にはいるけどって感じかな。もし遠慮なんかしてるようなら、その時点でダメだと思うけどね。声をかけにくいなら、聞きやすい人に聞きに行けばいいんだから。もっともっと食らいついて来なきゃ。かわいがってもらわないと、本当のことは教えてもらえないわけだから。稼ぎたい、有名になりたい、トップになりたいと思うなら、自分から行動しないと。それは努力とはいわないと思う。やるのが当たり前だから。騎手として普通にそういう事をしないといけないんじゃないか、と俺は思うけどね」

記者‐蛯名さんはいつごろからそのようなお考えをお持ちになったんですか?

蛯名-「うーん、いつからだろうね。それが普通だと思ってたから。やっぱり、金も無かったから稼ぎたかったし、有名になりたいとか、みんなそれぞれそういう夢があると思う。トップになりたいとか、ビッグレースを勝ってみたいとか。その中で乗りたい一心、勝ちたい一心でやってきただけだから。考えたという訳じゃなくて、ほんとにただ、勝ちたい、乗りたい、って。今の若い子の中から本当に伸びる子だってきっといるはずだし、またそういう風にならないと、俺らがいなくなった時にどうなるんだろうな、っていうのは感じる」

記者‐騎手のレベルが伸び悩んだり?

蛯名-「そういう事もあるし、競馬全体の問題にもなる。だからって『先輩のおまえらが進んで教えなきゃいけない』というんじゃなくて、俺らは聞かれれば教える、そういう風になって欲しいんだよね。そもそも騎手は人に教えるのが仕事じゃないんだから。だから貪欲にやって、あー、コイツ伸びそうだな、って感じのヤツを見ると嬉しくなっちゃうんだよ」

記者‐なるほど・・・。ちょっと話題を変えまして、日ごろから、仕事をする上でこれだけは気をつけてる、っていう事は、何かありますか?

蛯名-「健康とか、体調とか、栄養とか。例えば食生活が乱れたら、何かで補わなければいけないなとか、そういうことは考えてますね。あとはトレーニングなんかもやればやっただけ良いんじゃなくて、やったらケアもしなきゃいけないし。昔はそれこそ、暑い時に走らせて『水を飲むな』と言っていた時代があったよね。根性!だとか。時代が変わって、日本でもスポーツ医学が進んで『ちゃんと水分を摂りましょう、疲れたらちゃんと乳酸を抜くようにケアしましょう』とか『食べ物はこういうものが効果がありますよ』とか、色んな情報が入るようになったから。サプリメントで栄養を補給したり、色々なことをしながら、できるだけ自分の体を長く持たせられるようにっていうのは考えています」

記者‐アスリートとしての自覚ですね。

蛯名-「そう。例えば野球選手と話をすると勉強になったりとか、他のスポーツ選手と交流したり、外にどんどん目を向けて、競馬場の中だけじゃなくて色んな人と付き合おうという気持ちが、自分は大きいかな。そうすると、乗り役同士だったらなかなか教えなかったり、お互い隠す部分でも、外の分野の人とは自分もライバルじゃないし、意見交換的なことができたりするので、外の人とはなるべく付き合う。自分を狭くしないためにも、なるべく色んな人と付き合おうと」

記者‐野球の春のキャンプにも行かれたんですよね。多くのスポーツ選手が競馬好きで、騎手に興味を持っているっていう話を聞いたことがあります。

蛯名-「そうらしいですね。競馬をよくやってるっていう野球選手もよく聞きますから。ジャイアンツなんか特に後楽園ウインズ近いから(笑)。試合がナイターだと昼に馬券を買って、練習しながら競馬聞いてるって言ってましたよ(笑)。まあ、一緒にゴルフしたり、ホントに楽しく、仕事を抜きにしたというか、そうやって付き合っていく。楽しくやれりゃいいな、っていう感じです」

記者‐自分の視野を広く持ちたいっていうのもあるんですね。そのような行動をされているためか、蛯名騎手は新聞や雑誌にコラムを載せるなど、積極的に情報発信をされてますね。雑誌や本も出されて。

蛯名-「お金に困ったからやってるんです(笑)。いや、まあこれはたまたまそういう流れになったんで」

記者‐(笑)。では今後の抱負をお願いします。

蛯名-「身体には気をつけたいですね。できれば落ちたくないし、怪我をしないで1年間ずっと、毎年コンスタントに競馬に出て活躍したいと思います。色んなレースで勝ちたい、というのは、それはもう当然みんなあるけど、まずはレースに出てないとダメなんで。怪我しないように、自分が防げることは防げるように、普段から準備をしたりできることはやって、その中でまあ、1年間フルに出場するっていうのが、やっぱり一番大きいのかな。昔の20歳くらいの頃のように、何でも勝ちたいっていうようなそんなところまでは。やる気がないとかハングリーさがないとかじゃなくて、ある程度年齢がいって余裕ができたんで、もっと引いた感じで物を見られるようになってきましたね、またそういう部分で良かったりすることもきっとあるだろうしね」



記者‐若い頃とは違う、と。

蛯名-「もう、上を見てもいないから。年齢的にもね(笑)。下のほうがいっぱいなんで、まあ、そういう風になってきてるんだろうね」

記者‐先ほども話題に出ましたが若手騎手は1つのレースに乗るのも大変だと聞きます。で、乗れないから勝てないという悪循環に……。

蛯名-「『乗れないから勝てない』というのは違うな。『勝つから乗れる』んだよ。乗ってるから勝ってるんじゃないんですよ。勝つから乗せるんですよ。あれだけ乗れば勝つよっていうヤツもいるかもしれないけど、そうじゃないんだ。じゃあ乗ってみろって。そこまで乗れるように持っていく準備なり何かが違うのかもしれないし。結果を出すためにずっと何かやっていくことがあるかもしれない。それを周りに見せてない、見えてないだけでね。サラッとやってる風に、簡単に見せてるだけかもしれない。それは言えますね。だって俺らはやれて当たり前だからね。でもこの『やれて当たり前、結果を出して当たり前』っていうのはね、・・・結構ツラいよ」

記者‐ツラい、ですか。

蛯名-「結果を出して当たり前で、出さなかったら『何だ、何してるんだよ』ってね。そして褒められないから。それって結構ツラいんだよね。人間って褒められたほうがいいんだよ。だけど、褒めてもくれない、叱ってもくれないってなってくると、自分で戒めなければいけない部分がすごくたくさん出てくる。調子コイてもいけない、あんまり消極的でもいけない。バランス感覚を保つっていうのが、難しい。その位置を維持するのが。多分、俺なんかより、ユタカ(武豊騎手)なんかすごく大変だと思うけどね。彼に文句言うやつなんか誰もいないしね。だけどそこを維持できるのは凄いことだよね。そのバランスでいられるっていうことが。結構大変なことだよ。上の人は上の立場で大変なこと、下は下で大変なことがあるから、それぞれ大変なんだけど。でもやっぱりそこで上に行って維持するっていうのは、ものすごく大変」

記者‐そうですか・・・。でも、蛯名騎手が、「褒めてもらいたい」っていうのはちょっと意外でした。

蛯名-「みんなそうじゃない?男も女もヒーローになりたいし、ヒロインになりたいし、そういうのって誰もが持ってる夢だと思う。『いつか俺もこうなりたい』とか、何かそういうのがないとやれないって部分があるじゃない。もちろん褒められるだけじゃなくて、怒られることだって大事だしね。怒ってくれる人がいるうちが花だと思うよ。俺にはテキだとか色んな人が周りにいたから。若いうちにそういうチャンスを与えてもらってね、これはダメだ、これは良かったとかやって、少しずつ上がって来れたと思います」

記者‐なるほど・・・。では時間も残り僅かになりました。最後にファンにメッセージをお願いします。

蛯名-「200人以上いる騎手のなかから僕を応援してくれるファンの人たちに褒めてもらえるよう、喜んでもらえるように頑張ります。みなさん競馬場に来て声援をおくってください。よろしくお願いします」

★取材日=10/25
★取材場所=美浦トレセン・北馬場調教スタンド