大久保洋吉調教師と言えば、真っ先にメジロドーベルと吉田豊騎手のコンビを思い浮かべるファンも多いだろうが、大レースにはコンスタントに管理馬を送り出し、近年では主流となっている坂路調教の先駆者として名を馳せた名伯楽だ。厳格で筋の通った男気でスタッフからの信頼も厚く、弟子として4人の調教師を送り出すなど、人を育てる力にも長けている。引退まで数日と迫ったタイミングで、その競馬人生を改めて聞かせていただいた。

ためらった調教師になるまでの経緯

-:先生の競馬人生について振り返っていただきたいと思います。よろしくお願いします。お父様は元調教師の大久保末吉先生、競馬に縁のあるところでお育ちになりましたね。

大久保洋吉調教師:祖父の大久保福松も調教師でしたし、必然的にそういうところで育ちました。ただ、生まれた時から競馬場にいた訳ではなく、自宅は外にありました。小さい頃から父にくっついて競馬場に遊びに行くことは何回もありましたし、父がジョッキー時代に勝って、僕が写っている口取り写真もあります。小学校4年か5年の時に中山競馬場で撮った写真です。やはり、親の背中を見て育ったところがあると思います。

-:ジョッキーの息子ということで、先生も昔はジョッキーを目指していたのですか?

大:僕はそれほどでもなかったですね。学校帰りに時間がある時は競馬場に寄って午後の運動を手伝っていましたし、馬は嫌いではなかったのですが、それほどでもありませんでした。どちらかというと、父の方が私をジョッキーにさせたかったのだと思いますよ。でも、私は中学生くらいには大きくなってしまったので、父も諦めたと思います。こっちは好きなようにやっていました。

-:他に興味のあることはあったのですか?

大:野球やスキーをやっていましたね。それでも、別に職業にするつもりはなかったです。職業としては建築系の大学を出たので、最初は建築家を目指していました。実際に、現場で建物を作る方の仕事につきました。

大久保洋吉調教師

-:会社に就職して、働かれていたのですね。そこから競馬業界に入られる訳ですが、経緯を教えてください。

大:昔は競馬が世間から認められていない感じがありましたが、ハイセイコーブームもあってイメージが変わってきました。馬券も売れるようになって馬もどんどん増えてきましたし、厩舎の仕事も増えていきましたからね。父も1人じゃ色々とやりきれないということもありましたし、父のお客さんでメジロ牧場のもとを作った北野豊吉さんとミヤさんのご夫妻からの助言もあって、この社会に戻ってくることになりました。それで会社を辞めて、1年くらいメジロ牧場で研修をして47年の3月から助手になりましたね。

-:そこからあまり間を置かずに、開業されました。

大:当然、父の跡を継がないといけないと思っていましたし、試験は28歳から受けられるので、28歳から受けさせられていました。全く外から入ってきて4年間しか助手をやっていないですし、僕が一番、助手をやった年数は少ないんじゃないですかね。自慢とかではなく、タイミング良くなれました。当時は「経験がまだ足りないんじゃないか」と、周りからずいぶん聞こえてきました(笑)。あの頃は2年くらい待たないと馬房が回ってきませんでしたが、たまたま試験に受かった年の11月に茂木為二郎調教師が亡くなられて、僕と鈴木康弘、本郷一彦と、1年先に受かった松山康久の4人が一緒に茂木さんの跡を受けました。あと、僕は父親から2馬房もらって10馬房で始まったんです。

-:今みたいに調教師の定年制度はなかったんですね。

大:あの頃は、開業している調教師が亡くならないと馬房が回ってこなかったです。だから調教師になる資格のある人はいても、馬房がないんです。それではマズいだろうということで、競馬界も定年制を作ろうかと。鈴木康弘とか僕が調教師会の役員だった時期に決めたことです。70歳くらいで定年として、そこから5年は補償をする制度なんかも細かく決めました。

スタッフを育てる上での信念

-:競馬界の制度を決めるのに尽力しながらも、自分の厩舎を運営していかないといけない訳ですが、スタッフの方と接する時に気を付けていたことはありますか?

大:今は形態が変わっているところもあると思いますが、この仕事は基本的に1人が2頭を担当します。その状況の中でどこにやりがいがあるのかというと、やっぱり自分の馬が一生懸命に走ってくれて稼いでくれるというところにあるんです。それをスタッフが理解できるようにすれば、自ずと頑張ってくれるんですよ。馬のためでもなく、調教師のためでもなく、自分のために働く、そこが基本だと思います。極論になりますが、自分のために働かなくては何のために生きているか分からないでしょう。基本的に働くというのは、何をしていても自分のためですから「自分のことだから一生懸命やれ」ということは言ってきましたよ。

-:自分の頑張りが反映すると。

大:もちろんそうですよ。自分のところに返ってくる訳ですからね。それが結果的に調教師や馬主のためにもなるわけです。一生懸命にやって、段々と実績を積んでいけば、入厩してくる期待馬をそういった人に任せるようになるのでね。それでまた稼げるようになると。結局は自分のためになるんです。そこはどんな仕事でも一緒だと思いますけどね。


「8の力を持っている馬が8.5ぐらいになることはありますが、10になるということは滅多にありません。そういう点でもある程度のハードトレーニングを課すというのはありますね」


-:そこをハッキリさせていたんですね。では、馬を鍛えるという点についてはどういうところに気を付けていたのか教えてください。

大:父がスパルタ調教師だったと言われていましたので、私もハードトレーニングの基礎というのは持っているかもしれません。もちろん今は調教の形態も変わっているので全く同じということはないですし、そのときの状況に合わせてやっていますよ。まあ、調教も含めた運動の時間というところだと思います。ただ、8の力を持っている馬が8.5ぐらいになることはありますが、10になるということは滅多にありません。元々持っている能力を出せないで終わってしまう馬もいますし、その辺りも難しいです。そういう点でもある程度のハードトレーニングを課すというのはありますね。

-:そうなんですね。

大:調教師が競馬に出す時は、いつも100点満点で出せる訳ではありません。時期として、90点の時もあれば85点で出さなくてはいけないこともありますし、満点を目指していても上手くいかないことだってあります。特にG1なんかは大変なんですよ。みんなギリギリのところを狙ってくる訳ですから、ちょっとの差なんです。さじ加減を間違えると、取り返しのつかないことにだってなります。負荷を掛けてやりますが、そこのバランスは非常に難しいです。僕なんかは前の週にある程度仕上げておいて、次の週で微調整というのが理想なのですが、そこは人によっても違いますね。一番はスタッフが調教師の意図をちゃんと反映してくれるかどうかです。こちらが指示したとおりに調教してくれるのかというのは、大きなポイントになります。助手や騎手がちゃんと調教師の意図を汲み取ってくれれば、自ずと結果は付いてくるはずです。

大久保洋吉調教師インタビュー(後半)
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