さらばダービージョッキー 職人・中野栄治調教師が自らの仕事を語りつくす

今週限りで定年引退する中野栄治調教師

今週限りで定年引退する中野栄治調教師


——今週末に最後のレースを迎える中野栄治調教師に、これまで仕事をするうえで気を付けてきたところなど先生の考えを伺いたいと思います。定年引退のときが迫ってきましたが、現在どのような日々を過ごしていらっしゃいますか。

中野調教師(以下、中):普段通りに馬の調整をしながら、今預かっている馬たちを次の厩舎へ引き継ぐ作業をしたり、厩舎の片付けなどをしています。

——そのような作業を進めるなかで、引退のときが近づいていることを実感されたりしますか。

中:全然。僕は過去を引きずらないタイプなので。何せダービーの優勝トロフィーもどこに置いてあるか忘れてしまうくらいですから(笑)。

——え?

中:いや、一般的に考えるとそういう記念の品を大切にすることは大事なことですよ。大事にするのが普通だとは思いますが、僕はこだわらないんです。

——そうなんですか。ではダービーという単語も出ましたし、まずは先生のジョッキー時代について、仕事をするうえで気を付けていたところを教えてください。

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今年の日経新春杯を管理馬ブローザホーンが優勝

中:騎乗フォームは気を付けていました。フワッと乗って自分のヒジまでが手綱だと思う感覚でしっかりヒジを締めてね。あとはやっぱり気持ちですよ。気持ちで馬を動かさないと。まずは心で勝って、次に技術です。

——気持ち、心ですか。

中:そうです。乗り役はパドックで跨がったときから馬にこちらの気持ちを伝えないと。馬は人間の気持ちを読み取りますから、人間がビビっていると馬はナメてきて余計に暴れるんですよ。

いつもゲートで立ち上がるような馬を頼まれたときも、馬に対して「立てるもんなら立ってみろ」という気持ちで乗っていますから。そうやって心で勝っていれば馬は立ち上がりませんよ。

——そうなんですね。

中:また僕の時代は今のジョッキーみたいに1日10レースちかく乗るなんてことはなくて、1日3レースくらいが普通でしたからね。1頭乗るのも大変な時代だったので、ひとつのレースに対する執念も強かったと思います。負けたらクビという気持ちで乗っていましたし、そういう意味でもやっぱり心ですよ。

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2月10日、小倉の大濠特別で管理馬サニーオーシャンが大穴を開け1着

——騎乗数自体が多くないなかで結果を残していくのは大変ですよね。

中:ただ乗り方の基本はしっかりしていたので、乗り鞍は多くなくてもチャンスがある馬に乗せてもらったときは結果を出せる、と思っていました。周りには素晴らしい一流の先輩ジョッキーが多かったですけど、僕も五分にやれるなと思っていました。

実際10回乗れば1回は勝つくらいだったので「一割ジョッキー」と呼ばれていました。他にも「番手ジョッキー」とか「冠婚葬祭ジョッキー」とか。いろいろな呼び方をされていました。

——どういう意味でしょうか。

中:僕は小島太さんと中島啓之さんが騎乗停止で乗れないとき、次はお前だと指名されることが多かったんで、太さんと中島さんの「番手ジョッキー」なんです。

「冠婚葬祭ジョッキー」は、オヤジが死んですぐの東京新聞杯をシンボリヨークで勝ったり、息子が生まれるときに目黒記念をビンゴチムールで勝ったから。ビンゴチムールは普段なら乗らないハンデ52キロだったけど、息子が生まれるタイミングだし、ということでビッチリ減量して乗って勝ちましたよ。

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——いろんな異名をお持ちだったんですね。では続いて調教師になってから仕事をするうえで気を付けていたところを教えてください。

中:馬は1頭ごとに違いますし、それぞれの馬が持っている良いものを引き上げてあげたいと思っていました。少しでもおかしいなと感じるところがあれば、乗らないこともしょっちゅうでした。追い切りも調教ですが、休ませることも調教ですから。

僕は物事を長続きさせる持続性がないですけど発想力はあるので、日々の調教でもいろいろなメニューを考えて馬を飽きさせない工夫をしていましたね。馬作りはこうしなきゃいけない、という決まりはないので毎日毎日考えていました。

——そうなんですね。そのような発想力の源となったものは。

中:まず知識が必要ですけど、ただ知識があるだけではダメで、それを応用出来るかどうかですよね。自分が持っている知識を基に応用をきかせて、その場でスパッと判断出来るかが大事です。あとは経験も必要ですね。

成功はもちろん、失敗も良い経験になります。同じ失敗を繰り返すと愚かですけど(笑)。1度の失敗は仕方ないですし、いかにそれを次に生かせるかだと思います。

——日々の追い切りではどのようなところをチェックされていたんですか。

中:追い切り内容の指示は出しますが、僕は時計をはかりませんし、上がってきたときの息遣いと歩様を見てあとは乗り手に感想を聞くだけです。それで分かりますし、馬の体重もはからないですよ。見れば分かりますから。

——時計も体重もはからなかったんですね。

中:必要ないですよ。1頭1頭の特徴を知っていますし、馬を見ていれば分かりますから。

——他に調教師としてどのような作業に時間をかけられましたか。

中:いろいろありますけど、例えば全レースを見ていましたね。レースを見て、よその厩舎の馬の力をチェックしていました。馬はとにかくひとつは勝たないと先がないので、特に未勝利戦はしっかり見ていましたよ。

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そうしてよその厩舎の馬の能力を把握して、出来るだけ強い相手がいるところを避けてチャンスが大きくなりそうなレースを使おう、と考えていました。他にもウチの馬を2着に負かした馬が上のクラスでも強い勝ち方をしていたら、あの2着は評価出来るなとか、馬の能力をはかる基準にしていました。

そうして吟味しても、絶対勝たないといけないレースで2着になってしまうケースも多かったですね。そうやって負けたときは腹が立ちます。自分に腹が立つんですよ。レースで負けたら僕のせいですから。

——厳しい世界ですね。厩舎スタッフにはどのようなことを求めましたか。

中:馬に対して愛情を持って接することは当たり前ですよね。昨日と違うところはないか、と毎日馬の様子を見てあげることが大事です。そのなかで歩様がちょっとおかしいなとか、ボロの匂いが違うなとか馬の変化を感じてあげる。そういう厩務員の愛情が全てです。人間の気持ちは馬に伝わりますから。

もちろん僕も目配りをして馬の状態は分かっていますけど、調教師は厩舎全体を見るのが仕事ですし、1頭1頭に関しては一番近くで接している厩務員の愛情が全てですから。ブラッシングをしっかりかけてキチッと手入れをしたり、こちらがあれこれ言う前に、ウチの厩務員はみんなよくやってくれますよ。

——他にも先生が大事に考えてきたことはありますか。

中:僕は仕事にしても何にしても、基本を知っていることが大事だと思います。基本を知っていれば何か壁にぶち当たったときに、基本に立ち戻ることが出来ますから。

——基本、ですか。例えばどういうことでしょう。

中:基本のひとつは挨拶ですね。人と会ったときに笑顔で「おはよう」と言えるか。仕事どころか人生の基本ですが、意外とそういうことが出来ない人も多いと思います。僕は相手が誰であれ自分から挨拶するようにしていますし、厩舎でも自分が率先して明るくしてやろう、と思っていました。その方が気持ち良いじゃないですか。

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——そうですね。

中:人に何かをしてもらったことを忘れたりする人も多いですが、感謝の気持ちも忘れてはいけません。あとね、自分がやったことを「自分はこんなに凄いんだぞ!」とアピールしたり、自画自賛をしたりする人は僕は嫌いですね。凄いかどうかは他人が判断することですから。自分で自分を褒めるような人を見ると、この人は基本を分かってないなと思います(笑)。

——そのような先生のお考えに影響を与えた方はいらっしゃいますか。

中:それはやっぱり親父ですよ。荒木先生にももちろんお世話になりましたが、僕の師匠は父親、親父です。今言ったようなことや「そこにいない人の悪口を言う人は信用するな」とか、言い出したらキリがないくらい全部を教わりました。師匠を見つけることは大事ですよ。師匠という存在がいないと、壁にぶち当たったときに伸び悩んだり、育っていけないと思います。

——仕事だけではなく、人生に纏わるお話ですね。

中:こうしたいろんな話をしたり、これからは人を育てていくことをやっていけたらいいな、と思います。競馬学校で講師に呼んでくれないかな(笑)。

——定年引退後のやりたいことも伺えましたし、最後にファンへ向けてメッセージをお願いします。

中:それ、こないだ引退当日に競馬場で流すからってビデオ撮影で喋りましたよ。同じこと話すの恥ずかしいから、それを見てください。だいたいファンの皆さんに本当に何かを伝えようと思ったら、ひと言ふた言のメッセージじゃ足りませんから(笑)。今から3時間くらいくれればたっぷり話すけど(笑)。

——大変有難いですけど、今回はせっかく撮影されたビデオメッセージにお任せしましょう。恐らくJRAさんのホームページからでもご覧になれると思いますし。

中:へえ、そうなの。便利だね(笑)