自他共に認める温厚な性格で、自主性を尊重しながら人を育ててきた畠山重則調教師。牧場である実家を助けたいという一心でスタートした競馬人生が携わる人々の絆を強め、37年という調教師人生で、自らが納得する形の競走馬をつくりあげてきた。インタビューでは「やり尽くした」という納得の表情を見せてくれたが、全てを馬に捧げてきたその姿勢はファン目線からしても見習いたいものだ。

幼少時代から騎手よりも調教師

-:先生の調教師人生についてお聞かせください。先生はご実家が牧場を経営されているのですよね。

畠山重則調教師:小さい頃は、尾形(藤吉調教師)さんや、藤本(冨良調教師)さんなどの名伯楽が近所の牧場に来て、馬を買っていったという話を聞きながら育ちました。この道に入ったのは、馬が好きなのもありますし、小牧場の実家の手助けになればというのもありました。今の若者みたいに、目的なく大学に行くのとは違ったんです。田舎から出てくる時には、ジョッキーになること以上に調教師への憧れが強かったです。

-:ご実家が牧場を経営されていて、先々の助けになると考えられたのですね。

畠:今思うと、ませてますよね(笑)。中学に入る頃からそういうことを考えていました。当時は、馬事公苑が今でいう競馬学校だったのですが、中学の卒業間近に、試験を受けて馬事公苑に入りたいと初めて家族に話しました。すると皆に「危険だから止めろ」と言われ、一時はそうなのかなという気持ちがありました。

-:小さい頃からジョッキーになるよう言われていたかと思いました。ご両親からは、どんな職業に就きなさい、とも言われなかったのですか?

畠:田舎ですから、役場とかで給料取りになってくれと。兄がいましたし、僕が牧場に残っていても、兄弟で分け合ってやっていくほど大きくもなかったので。6人兄弟で、他にも使用人がいたり、祖父母もいて大家族だったので、尚更のこと騎手になって調教師になって実家の助けとなればと思っていました。それで直接厩舎に弟子入りしたい気持ちもあって、中学3年のときに近所の牧場の人が稗田敏男調教師を紹介してくれたのですが、旅館でお会いしたら「あんちゃん、体が大きくなるから諦めて学校に行け」と言われました。それで高校に行ったので、騎手になるのが遅れました。

-:高校に行っている間も、諦めてはいなかったのですか?

畠:競馬の雑誌を毎週買ったりしていました。それで家族には内緒でしたが、馬事公苑の試験を受けてみたら合格して。高校は2年生を修了し、出てくる時は休学という形でした。どうしても耐えられなかったり、体が大きくなってしまったり、という時のために、自分で休学という形にして出てきました。

-:高校生にしてはずいぶんとしっかりしていますね。

畠:良い意味で大人でしたね。いつも先のことを考えていました。合格したら、実家も応援してくれました。気をつけてしっかりやれよと。


「(騎手時代の思い出の馬は)タケシバオーですね。この馬1頭でもいいから一緒に函館に行きたいなと思うほどの魅力がありました。アメリカに2回も行ってくれましたし、短距離、長距離、芝、ダートとどんな条件でも勝ちましたからね。僕の目もまるっきりじゃなかったな、と(笑)」


-:それでジョッキーになるための課程に入ったのですね。ジョッキー時代を振り返っていかがですか?田中和夫先生に師事されました。

畠:名門でしたね。今の時代なら普通ですが、大学を出て調教師になる初期の方でした。先生からは、あまりあれこれ言われませんでしたね。ただ、厩舎にいる馬は「オーナーからお預かりした馬なんだから、粗末にするようなことはあっちゃならないよ」と。それを一番言われました。

-:あまり細かなことを言われなかったということは、畠山先生がご自身で考えて行動しなければならない面もありましたか?

畠:そうかもしれません。でも、自分で言うのも……ですが、子供の割には危なっかしいことはなかったはずです。

-:ジョッキー時代の楽しさはどういうところにありましたか?

畠:勝負服を着て強い馬に乗せてもらって、勝った時は家族も自分も喜びました。

-:ジョッキー時代の思い出の馬はいらっしゃいますか?

畠:タケシバオーですね。初戦、2戦目と乗せてもらいました。新潟デビューの馬ですが、調教から走りました。馬っ気が強いのと、腰に力がつききっていないこともあって勝ち切れず、新馬も2着で、そのまま特別に折り返してまた2着でした。その後、馬が函館に行くことになって僕は厩舎に戻ってくることになりまして、生意気なことは言えませんが、この馬1頭でもいいから一緒に函館に行きたいなと思うほどの魅力がありました。アメリカに2回も行ってくれましたし、短距離、長距離、芝、ダートとどんな条件でも勝ちましたからね。僕の目もまるっきりじゃなかったな、と(笑)。

-:64年にジョッキーデビューされて、調教師免許取得がその14年後です。

畠:ジョッキーで乗る数も多い訳ではないですし、元々ジョッキーになったのは調教師になる足がかりというのもあったので、早く次のステージにいこうと思いました。ジョッキー上がりで34歳で調教師ですから、僕は調教師になるのが早かったですね。

畠山重則調教師

臨機応変が厩舎運営のモットー

-:開業されて、馬を育てるにあたり、こんな点に気をつけたというのはお有りですか?

畠:田中先生の教えが元になるんでしょうけれども、1頭の馬をお預かりしたら、しっかりと育て上げて厩舎の戦力にしていくことです。例えば、屈腱炎になったというのは、競走馬としては致命傷ですよね。それでも、即ダメだというわけではなく、色々と手を施しながら努力するように従業員に言ってきました。人様の財産をお預かりしているということは常々、言いながらやりました。

-:厩舎スタッフの方たちには、どのような感じで接してこられたのでしょうか?

畠:あまり口うるさい方ではないですね。基本についてはよく言っていますが、任せる部分もあります。経験を積んできたら積んできた人なりに、新規には新規の人なりに接してきました。

-:馬のエサをこういう風にした方がいいなど、スタッフの方から先生に意見が上がってくることもあるのですか?

畠:それはあります。特に開業当初は、僕よりも長く経験を積んでいる人もいる訳ですから。そういう中で、任せてかえって良かったかなと思うこともあります。

-:先生ご自身の性格も、自主性を持って行動する面がありますものね。

畠:良い意味での臨機応変ですね。スタッフから、先生から指示を受けてないからやらなかった、とか言われるのが一番嫌なんです。何でこんな程度のことまでうるさく言わないとならないのよと。最近は一般社会でもそういうことがよくあるんですよね?

-:“指示待ち人間”なんて言いますよね。

畠:それが嫌なんですよ。考えれば分かるだろと。そこまで人に言わせるんじゃないよと。“信用しているから口数が少ない”ということもスタッフに言いたい場面はありましたよ。

畠山重則調教師

畠山重師が手がける3歳オープン馬マイネルサクセサー


-:そうなんですね。ところで、この職業は馬という生き物相手ですし、トラブルは付きものだったと思います。

畠:そこは肝の部分ですよね。それこそ、「朝の追い切りで良い動きをしていた」とオーナーに報告した矢先に様子がおかしくなるというのは、しょうがないところはありますが、一番切ないことですよね。馬というのは根性が第一ですから、調教中は大丈夫でも厩舎に帰ってきて手入れして一息を入れると痛さを見せることはありますよ。

-:そういう切ないこと、大変だったことも多かったと思いますが、調教師としての喜びというのはどのようなところにありましたか?

畠:やっぱり、デビューさせることができた時と1勝目が嬉しいですね。

-:やりがいというのはどこにありましたか?

畠:人気があるときに勝てば嬉しいですし、思いがけずに頑張ってくれても嬉しいですから、やっぱり勝つというのがやりがいだと思いますよ。あとは着を拾えればという馬が案外に内容の濃いレースで上位に入線した時とかも嬉しいもんですよ。

-:先生の思っていた以上の走りをしてくれるケースもあるのですね。

畠:そういうケースはそれほど頻繁にはないので、なお嬉しいんですよ。いつでも走ってほしいとは思っていますが、思っていた以上に頑張ってくれる時は嬉しいものです。

畠山重則調教師インタビュー(後半)
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畠山重則調教師

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